「原発避難いじめ」事件における責任所在の社会的構築

本ラボを修了した、早稲田大学大学院 政治学研究科ジャーナリズムコース 修士課程修了生の論文概要書です。

Author: L.M. (2020年3月修了)

概要

 本研究は横浜の小学校で起こったいじめ事件報道を対象とし、新聞が記事によって構築した「原発避難いじめ」の責任所在及び誰が責任者として書かれるかを解明するものである。2011年から2018年の間に焦点を置き、『朝日新聞』と『読売新聞』の記事を取り上げる。
 石飛(2012)は先行研究の知見を踏まえ、「いじめがいじめと認識されるには『いじめ言説』という一定の枠組みが必要」(石飛,2012,p.87)という結論を出した。大石(2005)は「現代社会において出来事は、ジャーナリズムによって報道されることではじめて社会的に可視的な存在となり、出来事の推移に多くの力が作用することになる。」(大石,2005,p.123)と述べた。いわゆる、マスメディアは世間に着目されないままに長く存在するものを各媒体を通じて顕在化させ、討論に値する価値を付与する。それゆえ、新聞報道には原発避難いじめを巡って、どのような「現実」を社会に伝わるかがこの研究の問題意識である。
 これまでの研究は主に一般的ないじめに焦点を当てているが、メディアの視点から避難生徒に対する「原発避難いじめ」の責任帰属問題を中心に検討する研究は管見の限りなかったため、この空白をなくすことに研究意義があると考える。
 はじめに、いじめにおける金銭被害の有無の認定によって1期と2期を分け、最終報告書にて各責任者に対する処分が確定されているものを3期として期間を区切った。内容分析を用い、新聞記事に構築された責任の所在は1期(2016.11-2017.2.12)において、学校、市教委と社会に集中し、加害者、加害者家庭も触れられ、2期(2017.2.13-2017.3.31)に入ると、加害者と加害者家庭は責任者の位置から解放され、3期(2017.4.1-2018.12.31)の記事には、2期に指摘された責任者に加え、国家も登場されたという変化が見られる。全体で見れば、責任の所在は個人から社会に広がるという傾向があると説明できる。
 次は、アクター分析を通じ、誰が責任者として語られるかという問いに対して分析を試みた。1期の記事において、新聞では加害者と加害者家族については主に名前や年齢といったアイデンティティが提示されず、明確な責任者として描かれなかった。学校と市教委レベルの責任は主に組織集団である「学校」、「市教委」として登場し、新聞に主要な責任者として構築された。学校に対する批判は能力不足から消極的に対応するという過ちの対応姿勢への語りの変化が見られた。市教委が責任者として構築される際に、副次的な責任を負うべき責任者からより重く、二次加害の加害者との役割の変化が見られた。また、社会レベルの責任を言及する際に、我々と区別した偏見を持つ「大人」が多く登場した。2期に入ると、個人として、職能化される「市教委長」や「校長」らが最も多く登場し、組織の代表として謝罪するように能動的に表象された。それに対し、第3期において、組織のトップとなるアクターが多くなる一方で、集団化されたことで、「関係した教員」の責任が曖昧にされた。
 分析の結果を踏まえ、原発避難いじめの責任論の展開は佐久間(2014)によって明らかにされたように責任構築の再生産が行われていると言える。

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