つくられた英雄としての「フクシマ 50」―日・中・英語新聞の分析から

本ラボを修了した、早稲田大学大学院 政治学研究科ジャーナリズムコース 修士課程修了生の論文概要書です。

by H.I. (2018年3月修了)

本研究は、東日本大震災の報道において、これまで詳しく言及されてこなかった、英雄としての「フクシマ50」の言説を、日・英・中国語の新聞から質的に分析し、現代の災害報道における英雄像の特徴を明らかにしたものである。

メディアは災害という事象を社会的認識として構築していくうえで重要な役割を担っている。人々はメディアが作り上げた「象徴的現実」から災害を認識し、自らの「主観的な現実」として受け入れていく。そういった人々の認識の集まりが、次第に災害の社会的認識を構築することになる。つまり、災害報道の分析を行うことで、災害はいかに社会の中で構築されていくのか、その過程を追うことができると考えられる。

2011年3月11日に発生した東日本大震災をめぐる報道では、海外で報じられたことが「逆輸入」の形で日本に戻ってきたケースが多く見られた。本研究の対象となる「フクシマ50」もそのなかに位置付けることができる。「フクシマ50」とは、東日本大震災により被災した福島第一原子力発電所に残り、危険な状態の中で働きつづけたと言われる50名の原発作業員に対して、海外メディアがつけた呼び方である。

本研究は、「フクシマ50」の言説が、1)グローバル環境において、各国の新聞メディアによりいかに報道されてきたか、そして2)その様相がいかに複雑な変容を遂げてきたか、という2つの問いに答えることを目的としている。日・中・英語の新聞データベースから「フクシマ50」関連の記事をそれぞれ抽出し、それらに対して批判的ディスコース分析(critical discourse analysis: CDA )を行った。

まず、2011年東日本大震災直後の報道では、文化圏を跨いだ英雄像が作り上げられてきた。しかし、2014年『朝日新聞』の「吉田調書」事件によって英雄像が揺れはじめた。揺れ動いた英雄像に対して海外メディアは関心が薄い状態であったが、一方、日本の新聞メディアでは「称賛される英雄像」の言説がさらに強まり、「想像の共同体」へと拡張される結果になった。

この言説の変化からは複雑な様相が読み取れる。「称賛される英雄像」には各国共通の規範的ロールモデルといったイデオロギーが働いたのに対して、「揺れる英雄像」で現れた様々な言説には、ニュース報道が求める新鮮性や一次性、日本メディア間に潜む深刻な価値観の対峙、災害報道の問題点などが見受けられた。

メディアが「フクシマ50」という英雄像をつくり、それにスポットライトを当て、英雄像に対して「称賛」および「批判」の言説にとどまることで、本当に注目すべき「災害弱者」への対応や救援・復興の進捗、それに事故の反省などが見過ごされる可能性が増えたとも考えられる。

一方、作られた英雄像のような感情的ディスコースには、災害報道において、コミュニティを築き、国民を団結させる機能が認められるとともに、災害の責任者である権力者を批判する力を持っていると指摘されている。つまり、災害報道に際して新聞が既存のイデオロギーにこだわりすぎなければ、称賛・批判の主張を越えて問題提起や解決案に結びつき、さらにより多様な政治的機能を果たすことができると考えられる。

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